フランス・オクシタニ地方ライドその6
ここのところ、ブレロたちが住むミュレでも午後の気温が40度に達するようになってきた。せっかく近所によい道があるのだから、まだ涼しい早朝にライドしたらどうだろうか――そういう考えが浮かんではいたものの、なかなか実行できないでいた(ブレロは早起きが苦手である…)。しかし、ついに息子が4歳になる誕生日に、この考えを実行に移すことにした。
当日のミュレにおける日の出の時刻は午前6時55分なので、そのくらいにミュレ=オーヌ(Eaunes)丘陵の頂上に登れるような時間配分を考えてみた。妻氏やブレロ3号がまだ眠りについているなか、ブレロはいそいそと愛機をもって家の外に出た。外はまだ真っ暗だ。
最初の坂を登ったところにある台地の上の道を走ると、だんだんと空が白みだしてきた。オーヌ行政区に入ったところで一休みしていると、すごいスピードで2人のローディが通り過ぎていった。やはりこの近辺でも早朝ライドしている人たちはいるのだ。
ミュレ=オーヌ丘陵で一番高い(と思われる)場所に到着するためには、もう一度坂を登らなければならない。登っている途中、ちょっと脇見をすると荒地の上を走る小鹿の姿が見えた。だが、すぐに木陰に隠れて見えなくなった。展望が開けた頂上に到着すると、ほどなくして朝日が丘陵の向こうから姿を現した。気温も低く、気持ちのよいご来光だ。ただ、身体にまとわりついてくる羽虫が多いのに少し閉口したが…。
ちょっと視線をずらすと、野ウサギが2匹、耕耘された畑の上を走るのが見える。しかし、あまりに素早く移動するので、写真を撮影するいとまもなかった。
目的地の1つであるサンタマン礼拝堂(Église Saint-Amans)に行くために、県道を外れてすこし丘陵を降りる。廃墟だろうと思っていたが、そうではなく、きちんと保存され維持されていた。グーグル上のローカル・ガイドであるクリスティアン・ヴァラド(Christian Valade)氏の説明によると、これは遅くとも12世紀に創建された礼拝堂で、トゥールーズのとある修道院(Le monastère Sainte-Marie de la Daurade)の所有物であったという。しかし1944年にミュレに隣接するフォーガ(Le Fauga)の製粉工場が爆発したことによって、礼拝堂の屋根も吹き飛んでしまったとか。それ以来、この建物は省みられることなく廃墟化が進んでいたが、1998年に自治体によって修復が行われたそうである。
ここでヴァラド氏が言及している「製粉工場の爆発(l’explosion de la poudrerie)」とは、いったいどんなものだったのかはよくわからない。そもそもフォーガは丘陵のふもとにある町だが、そこの製粉工場が爆発したからといって、丘陵のはるか上にある礼拝堂の屋根が吹き飛ぶものだろうか? ネット上のある記事によると、第2次世界大戦中の1944年8月18日に、ドイツ軍はフォーガにあった資材集積所の類をことごとく破壊したらしい。その一環として、製粉工場や礼拝堂を含む様々な建物の爆破が意図的に行われたということだろうか? またある記事によると、(フォーガを占拠していたドイツ軍を追い払うためであろうか)連合軍が1944年7月5日に空爆を行い、様々な建物に甚大な被害をもたらしたらしい。礼拝堂はそのときに巻き添えを食ったのだろうか? ドイツ軍が、資材集積所でもなんでもない小さな礼拝堂をわざわざ爆破したというのは考えにくい。したがって、どうも後者が真相のように思われる。空爆であれば、この小さな礼拝堂が被害を受けたのは「誤爆によるもの」と説明できそうだし、屋根の部分が吹き飛んだというのも納得がいく。だがそうすると、ヴァラド氏がわざわざ製粉工場に言及している理由がよくわからなくなる。ともあれ、ネット上の情報ではこれ以上知りようがない。この点についての真相を知るには、この地方の郷土史に関する本を自分でひもといてみるしかないだろう(あるいはヴァラド氏に直接きいてみるか…笑)。
ご来光を鑑賞したあと、頂上からエスタンタン(Estantens)通りを通って標高差100メートルほどを下っていく。この下りは、今回のコースで一番気持ちのよい部分かもしれない。県道4号に突き当たったら右折してしばらく走り、また右折して県道43号に入る。ここからまた同じ丘陵を登り返すことになる。そして「リボネ」というドメーヌ(Domaine de Ribonnet)の看板が見えたら、右折して裏道に入る。このドメーヌは、今回のライドの2番目の目的地である。たぶん、我が家から一番近いドメーヌだと思う。
到着したのは午前8時45分で、販売所がオープンする時間より15分も早く着いてしまった。しかしこのワイナリーの関係者と思われるご老人が、ブレロのためにすこし早く販売所の門を開けてくれた。状況的に、たった1本のワインを買うために試飲できるような雰囲気ではなかったので、試飲は早々に諦めた(肝っ玉の小さいブレロ…笑)。彼はブレロが日本人であると知ると、10年前に日本中を旅行をしたと教えてくれた。結婚何周年かわからないが、その記念として旅行したそうである。こんな辺鄙なところ(失礼!)でも日本に所縁のある人と出会うとは、驚きである。あとでわかったことだが、ご老人の名前はクリスティアン・ジェルベール(Christian Gerber)――このドメーヌの前当主であった。
ブレロが「白ワインが欲しい」というと、ジェルベール氏はシャルドネ種のワイン(1本約11ユーロ)を勧めてくれた。しかし、結局、このワイナリーのホームページで一番に宣伝されている「飛翔 白(L’envolée Blanc 2024)」という名のワイン(1本7.5ユーロ)を買うことにした。ジェルベール氏の説明によれば、このワインの製造には黒ブドウ(カベルネ・フラン種)が使われたらしいが、黒ブドウは通常は赤ワインに用いられるので、それを使った白ワインとは一体どんな味なのか興味があったからである。
ところで一般にドメーヌは「シャトー」とも呼ばれるが、ここには本当にシャトー(城)がある。ドメーヌの由緒書きによると、この城はトゥールーズ市の運営や行政の任に当たっていたブルジョワ(capitouls)が15世紀に建造した城であり、トゥールーズへの主要道路を見張るために造られたものと歴史家によって強く推定されているそうだ(25メートルの高さをもつ塔がある)。それ以上の説明がないので何を見張っていたのかはよくわからないが、おそらく運搬物資を狙った盗賊や略奪者の類ではないか。その後1979年に大きな火事があって、城の一部が消失した。その再建にジェルベール家が資金を投じ、同時に現代的なワイン醸造技術を用いた設備を城内に設置したという。現在、30万リットル分のステンレス製と木製のワイン樽があり、後者は古くなると定期的に入替えが実施されるそうである。
一応、見学の許可はもらったが、門が閉まっていたので、城の中に入ることはできなかった。
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丘陵の頂上
から見たご来光。気温は21℃。暑くはないが羽虫やハエがいるのにちょっと閉口。
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サンタマン礼拝堂
は、廃墟ではなく、きちんと維持・保存されていた。
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サンタマン礼拝堂
の正面からガロンヌ平野を見下ろして。まだ家々は眠りの中。
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水分補給中
に見た向かい側の丘陵。あの並木道の向こうにワイナリーがある。
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前回のライド
同様、放牧されているお馬さんを発見。どんな用途に使われる馬なのか。
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朝の空気の
中に佇むリボネ城。正式にワイン・ツーリングを申し込めば城の中を見学できるのかもしれない。
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ワイナリー近辺
のブドウ畑を鑑賞するブレロ。一見どれも同じに見えるが畑によって種類が違うのかな。
ドメーヌの由緒書きは、この地域一帯のワイン醸造が、クレマン・アデル(Clément Ader: 1841-1925)の研究と投資による恩恵を受けたことも教えてくれている。ミュレ生まれの彼は、フランスでは一般に飛行機開発の先駆者とみなされている。当然、ミュレが誇る偉人であり、彼のための博物館もミュレにある。本当にクレマン・アデルがライト兄弟よりも先んじていたか否かはかなり怪しいのだが、それでもエジソンと同様、様々な分野で発明を行った偉大な発明家であったことは間違いない。そして、その分野の一つがワイン醸造であった。クレマン・アデルはブドウの品種改良を積極的に行い、ブドウ畑を半翅目アブラムシによる壊滅的な打撃から救った。また、ガラスで覆われた気密性の高いワイン樽なども開発した(この技術は現在でも利用されているという)。しかし彼は、ワインの醸造や飛行機の開発にお金を使いすぎたため資金的に行き詰まってしまい、その地所を外国人に売ることになってしまった。それでも、ドメーヌ・リボネがワイン醸造を行うことができたのは、クレマン・アデルがこの地で撒いていた種によるところが大きいのではないか*。由緒書きに彼の業績が大書されているのは、ドメーヌがそのことを強く意識していることの証左であろう。
首尾よくこのドメーヌのワインを入手したブレロは、もう一度丘陵を県道4号まで下り、それから県道53号を使って回り込むような形でフォーガを経由し、丘陵のふもとの平地をミュレまで走って帰った。だが、ドメーヌがすでに丘陵のかなり上部だったので、ここを下らずに、もう一度来た道を帰ったほうがかなり快適なライドになったことだろう。したがって、コースをそのように修正して記録することにした。フランス滞在期間中、何度もたどってみたいご近所のコースだ(ヒル・クライムが2回組み込まれているので、よい鍛錬にもなる)。
* 後日、フランス人の同僚と夕方ビールを飲んだときに教えてもらった話によると、戦後、ある資産家の共産主義者がミュレ近辺の土地を買い占め、ワインの製造業を始めたことがあるそうだ。その品質は必ずしも良いものではなかったが、ソヴィエト連邦や東欧の共産主義諸国に輸出してかなりの利益を上げたらしい。だが、このワイン事業は、ソヴィエト崩壊によって終焉を迎え、かつてほどはこの地域でワインが製造されることはなくなったという。その共産主義者とは一体誰なのか? 同僚は彼の名前を教えてくれなかった(覚えていなかった)ので、自分でネットで調べてみたが、ジャン・バプティスト・ドゥマン(Jean-Baptiste Doumeng)のことではないだろうか。ドゥマンは、冷戦期に共産主義諸国との間でビジネス関係を構築し、大いにお金を稼いで赤い億万長者(le milliardaire rouge)と呼ばれた。ノエ(Noé)というミュレ近辺の町で小作人をしていた男の息子で、またこの町で亡くなったそうだからきっとそうだろう。ドゥマンのワイン事業も、ひょっとしたらクレマン・アデルの業績に負うところがあったかもしれない。そう考える方が自然だろう(たとえ結果として品質のあまり良くないワインが製造されたとしても)。
↑今回のライドのショートムービー