フレンチ・バスク

1.旅行1日目

 

前の記事に書いたように、ブレロは1月中旬から3月中旬まで成果発表の準備に注力していたので、ろくに家族サービスができなかった。とくにいつも自宅でブレロ3号の世話ばかりしていた妻氏には、少し寂しい思いをさせたと思う。

 

そのおわびに、ちょっと時間ができた4月の初旬から中旬にかけて、一家で南仏を旅してみようと思った。今回の目的地は、バイヨンヌ(Bayonne)である。バイヨンヌはフランス領内のバスク地方として知られている。また欧州におけるチョコレート発祥の地としても知られている。

 

移動には国鉄を使ったが、かなり安いチケットを買ったので、全行程の所用時間は5時間弱だった(停車駅が比較的多く、乗り換えのある便だった)。タルブ(Tarbe)という街までTER(地域圏急行)で行き、そこからバイヨンヌまでINTERCITE(都市間特急)で行った。タルブでは1時間半近く、乗り換えの待ち合わせをした。

 

ブレロが通勤でトゥールーズからミュレの自宅に帰るときに乗る電車は、このタルブを終点とする電車が多い。アナウンスのたびにどんな街なのか気になっていたが、短い時間とはいえ、今回初めて訪問することができた。

 

街の中にあった植物園ではクジャクが放し飼いされていた。2羽のうち1羽は真っ白いクジャクだった。すこしびっくり。

 

ブレロたちが乗ったバイヨンヌ行きのINTERCITEは、途中でポー(Pau)やオルテス(Orthez)に止まった。そこから一直線にバイヨンヌには向かわず、ダクス(Dax)という街を経由した。そのせいで電車の進行方向が変わったのだが、車内の電光掲示に突然「次の駅はオルテス」と表示されたのでびっくりした。

 

「うん?オルテスにもう一度戻るのか?」。

 

目的地は依然としてバイヨンヌと表示され続けているので、問題ないのだろうとは思った。だが、そうこうしているうちに「次の駅はポー」とも表示されて、さらにびっくりしてしまった。一方で、乗車している他の客はみな平然としている。妻氏が相席者のフランス人にきいても、「大丈夫だ」という。実際、このINTERCITEは、進行方向が変わってからもバイヨンヌに向かい続けていたようだ。「次の駅はオルテス」「次の駅はポー」と表示されても、結局、オルテスにもポーにも停車しないでバイヨンヌに着いた。どうも進行方向が変わったことで、トゥールーズに向かうとき(上り線)の停車駅が自動的に表示されたようだ(いい加減だなあ)。フランス生活では、こういう日本ではおよそ体験しないだろう予想の斜め上を行く小さな問題がしばしば発生する。このところだいぶ慣れてきて、その種の問題はおおよそ体験済みだと思っていたが、久しぶりにまた体験してしまった。

 

 

バイヨンヌの第1印象は、「トゥールーズよりも明るい街だなあ」というものであった。中心街の雰囲気は最高で、ブレロ一家はホットチョコレートを飲んだり、生ハムを買って街歩きしながら食べたりした(バイヨンヌは生ハムの街としても有名)。夕食は、妻氏が前もって選んでいたレストラン(Cantine Du Musée)で食べた。予約なしだったので室内では食べれなかったが、外でも問題なかった。小さな店なのに、料理の質が高級ホテル並みなのは驚きだった。

 

2.旅行2日目

 

旅行二日目はバイヨンヌからバスに乗ってサール(Sare)という山岳地帯の村へ行く。山岳地帯といってもピレネー山脈の端っこであり、標高はそれほど高くはない。バスに乗り込むと、検札機のところに3つの言葉で「ようこそ」と書いてあった。1つはフランス語(Bienvenue à bord)、1つはスペイン語(Bienvenido a bordo)であった。残る1つは当然バスク語と思われるが、仏西とは全く異なる表記が強くブレロの印象に残った(Ongi etorri)。聞いた話では、バスク語は印欧語族にすら属していないらしい。欧州の笑い話で、どんな罰にも平気な顔をしていた悪魔が、それでは3年間岩牢に閉じ込めてバスク語を勉強させるぞ、と神に言われると、真っ青になって神に許しを乞うたというのがあるが、さもありなんという気がする。

 

サールの民宿に荷物をおろしたブレロは、近場をちょっと一人で山歩きしようと思い、妻氏から許可をもらった。迷わないように舗装された一本道を進んだが、どこまでも歩いていけそうなよい道だった。頂上が管理された牧場になっていると思しき小山を経由して、途中から舗装された道を外れ、樹木が全く生えていないダートを直登してもう少し大きな山の頂上に着いた。ダートでは、馬が1頭草をはんでいた。この馬が、バスク地方で産するといわれるポトック(pottok)なのだろうか。Wikipediaによると、ポトックの大半は半野生馬だという。

 

 

ブレロがたどり着いたこの山の頂上は、あとで調べてみるとRedoute de Suhalmendiという名が付いていることがわかった。ルドュット(redoute)とは稜堡又は堡塁のことである。つまり軍事拠点である。フランス第1帝政期に、バスク地方の反乱を抑えるための軍事拠点がここに構築されたようである。ただブレロには、その面影は全く感じられず、史跡とは全く気付かなかった。ともあれ、樹木のないこの山頂からは、ブレロが辿ってきたサールからは全く見えなかった海(大西洋)がよく見えた。素晴らしい景色だった。

 

3.旅行3日目

 

旅行三日目、ブレロ一家は登山電車に乗り、フランスとスペインの国境に位置するラルヌ山(La Rhune)の山頂まで行った。残念ながら山頂はガスに覆われ、有名な360度の絶景パノラマを楽しむことはできなかった。車窓からみた途中の景色はなかなか楽しめたが…。視界がきかないのでとくにすることもないブレロ一家は、再び電車がくるまで山小屋の中で寒さをしのぎ、ずっとコーヒーを飲んだりして過ごした。登山電車で再び中腹に降りてからは、乗り換えのバスが来るまで待合のバーで地ビールを飲んで小一時間ほど過ごした。山頂は寒かったが、ここは快適な温度で過ごしやすかった。

 

われわれはその日のうちにサン・ジャン・ド・リュズ(Saint-Jean-de-Luz)という港町に移動し、ここでイカ墨料理を食べた。ブレロはイカ墨パスタを食べたかったのだが、出てきたのはイカ墨スープの中にゆでたイカが入っている料理で、予想とはだいぶ違った。まあ、それでも新鮮な魚介料理を味わえたのだからよしとしよう。

 

4.旅行4日目

 

旅行四日目では、妻氏とブレロ3号は昼過ぎまで浜辺で遊び、ブレロは浜沿いを散歩して過ごした。かつて妻氏とニースを旅行したことがあるが、ニースには砂浜はなく、海水浴場は小石ばかりだった。サン・ジャン・ド・リュズはごくごく小さな港町だが、砂浜の砂は非常に細かく上質だった。一般のフランス人はひょっとすると、体にまとわりついて水着の中に入ってくるこのような砂を好まないのかもしれない。しかし、日本人にとっての風光明媚な浜辺は、明るい色をしたこのような細かい砂のイメージが分かちがたく結びついている。だからブレロにとっては、サン・ジャン・ド・リュズの浜辺の方がニースよりも素晴らしく思えた。

 

 

あとでフランス人の同僚に今回の旅の話をしたら、ラヴェルの生家に立ち寄ったか?ときかれた。そういえば、サン・ジャン・ド・リュズの近辺にはラヴェルの生家があるのだった。しかし、ブレロは音楽家の生家(建築)自体にそれほど興味関心はない。むしろその感性をはぐくんだ家庭環境や自然環境の方に興味関心があるのだ、と彼に言ったら、納得していた。そもそもラヴェルは、生後3ヵ月しかここで過ごしておらず、その後一家はパリに移住したために、この地の環境が果たして彼の音楽に影響を与えたかといえるのか否かは議論の対象になっているらしい。しかし、今回サン・ジャン・ド・リュズを訪れてみて、彼の音楽を特徴づけている明るさとそこに少しだけ含まれている哀愁が、この街からも確かに感じられるとブレロは思った。実際、ラヴェルは、長じてからも母のバックグラウンドであるバスクの文化に親しみを感じ、定期的にサン・ジャン・ド・リュズを訪れて滞在したという。

 

ところで、われわれが宿泊したホテル(Les Goëlands)には、浜遊び用のおもちゃ(バケツやスコップ)がたくさん置いてあったので、チェックアウト後にそれを貸してもらった。ブレロ3号はそれを使って12時まで夢中になって遊んでいた。従業員の話によると、このホテルはほぼ100年間、同じ一族によって経営されているという。おもちゃを借りたときは、(オーナーではないと思うが)やや高齢の男性がレセプションにいて対応してくれた。この男性には娘さんがいて、ちょうどいま日本を長期旅行中だという。こんなフランスの片田舎に来ても、われわれの祖国と何かしら縁のある人と会話することになる。世界はどんどん狭くなっている。